12月25日(土)
「命の灯が消えるまで」
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「所詮短い人生」。
そう頭で分かってはいても、
いつまでも生きられるような錯覚ってありますよね。
周りの人が例えなくなったとしても、
自分自身はなくならないのじゃないのではないか?

でも、それはあくまで錯覚。
人それぞれに間違いなく、平等にやってくる「死」の存在。
もし命の灯の残りが分かったとき、
自分はどう立ち振る舞うのだろう。

2年前、「余命はあと2年」と言われたフリーライターの方が
とある討論番組に参加していました。
33歳、命は残り「1ヶ月」。
日に日に「死に近づいている」というのが分かるそうです。

話を聞いていて、胸がいっぱいになりました。

「人よりも短いな」とは思うけれど、
みんなが夏休みくらいの休暇をとっているのに
自分にはゴールデンウィークくらいしかない。
でも、だらだらした夏休みというのはあるだろうし、
すごく充実したゴールデンウィークというものもある。

そんなことを言っていました。
「余命が短い」と知ることができたのは
彼にとってはとても大きくプラスに働いているような気がします。
いや、自らの手でマイナスをプラスに働かせたんだね。

周りから見て「あー、プラスに働いてるなー」と思うことって、
「何かの力でプラスにしてもらってる」のではなくて、
「もともと表裏一体のプラスとマイナスをプラスに向けている」、
その人の力だと思うんです。
「うらやましい」のはその人をとりまく状況じゃなく、
その人の「プラスに持っていける力」なんですよね。

ただ、この番組を見ていて、妙に落ち込んでしまいました。
(「元気をもらった」と言ってしまえば
きれいにまとまるのですが、
ウソを書いてもなんの意味もないので…)

「生きる」ことがとても哀しく感じてしまったの。
なんだろう。
「いつかやってくる死」というのを実感できたせいか。
「生きる意味」に疑問を感じたせいなのか。

「人に与える影響」という意味における「人生の意味」
というのは「ある」と思うんです。
「あなたが生きているからこそ」という、「生きる意味」。

それよりももう一段階広いところ、
「生命そのものに対する意味」に関しては、
はっきり「ある」と答えられないんです。
「生命はなぜ生まれ、なぜ死に行くのか。」

こんなことずっと考えていても仕方がないのは
とてもよく分かっているのですが、
何だかやりきれない気分になっちゃったんです。

これは、「クリスマス」と同じなのかな。
「クリスマスがなぜ生まれたか。なぜ祝福するのか?」
を考えすぎて楽しめないよりも、
「今あるクリスマスという得体のしれないものを楽しむ」
というほうが、ずっと楽で、幸せなこと。
考えすぎてる間にクリスマスが過ぎ去ってしまうのは
もったいないですからね。

う〜ん、
まったくもって収集のつかない日記になってしまいました。
長い割になんの結論もなくてごめんなさい。
でも最後は見事(?)「クリスマス」に着地しておりますので
どうかご勘弁を(笑)
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